モダニズムを代表するドイツ人建築家。
近代建築の三大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ)に加え、4人目の巨匠とされています。
「造形は機能に従う」と言って、世界中に建築することが可能な、統一された様式のインターナショナルスタイル(国際様式)を提唱しました。デッサウのバウハウス校舎は、その実例となり、モダニズム建築の代表作として、世界中に知られるようになります。
その後、アメリカの建築家、フィリップ・ジョンソンの企画で、インターナショナルスタイルの展覧会(ニューヨークMOMA)が開催され、建築界の主流になっていきました。
バウハウスは、ヴァルター・グロピウスによって1919年ワイマ-ル国立バウハウスとして成立。
設立当初は、単なる建築家を養成する造形学校でしたが、後にバウハウスのモダニズム思想は極めてアバンギャルドな性格を持ち、
教育運動、造形運動、工房活動などの様々な特性が、その後の時代に決定的な影響を与えました。
バウハウスとはデザイン様式のことをいうのではなく、近代産業革命によって工業製品の大量生産化の発展により、
その渦の中へ取り込まれてしまった芸術を救い出すために、温かみがある手工業芸術を復活させて、
美術芸術意識全体を向上させるという思いのもと、「建築」という目標を掲げた、いわば一般に対して広く意識させることを目標とした、
教育システムのことです。
しかし当時としては斬新な考えのため、保守層には攻撃をうけますが、グロピウスは職人的手仕事の復興を唱え、
芸術家や建築家のために専門の教育を行いました。
生活機能の基本である「建築」のもと、彫刻・絵画・工芸などの諸芸術と職人的手工作など、一切の造形活動を結集して、
芸術と技術の再統一を図るという教育理念のもと実施し、デザイン運動のひとつの頂点を極めたものとして、高く評価されています。
1926年にグロピウス自身が設計したデッサウのバウハウス校舎から、近代工業が発展しつつある当時において、
その生産形式・生活様式に応じた芸術のあり方を示しました。
その後、校長はハンネス・マイヤーを経て1930年ミース・ファン・デル・ローエに代わりますが、バウハウスは1932年ベルリンへの移転、
1933年にはナチス政権によって閉校に追い込まれて、14年間の短い歴史に幕を下ろしましました。
モダニズム建築に多大な影響をもたらしたバウハウスですが、その中でもバウハウスの主唱者たちによる作品とデザインは、
今でもなお世界中に影響を与え続けています。
特にグラフィックデザインおよび家具デザインの分野でバウハウスが主張する「芸術と技術の統一」は、理想的な方法で成果をあげてます。
その後のミースはグロピウスに遅れること1年後の1938年にアメリカへ移住し、
シカゴのアーマー大学(現在のイリノイ工科大学)の教授を務めています。